旧田中家住宅ホームページ
旧田中家住宅とは
田中家と住宅の竣工
田中家は代々長男が家督を相続して「德兵衞」を襲名しています。初代德兵衞(寛政7年~明治4年・1795-1871)は農家として身を立て、二代目德兵衞(文政11年~明治38年,1828-1905)から麦味噌の醸造や材木商を営み財をなしました。
四代目田中徳兵衛
四代目 田中德兵衞
四代目德兵衞(明治8年~昭和22年,1875-1947)は若くして亡くなった先代の跡を継ぎ、昭和の初め頃までに味噌醸造業・材木商として財を築き上げました。

また家業のほかに、埼玉味噌醸造組合理事長をはじめ、南平柳村村長、埼玉県会議員を務め、昭和7年(1932)には貴族院多額納税者議員にも就任しました。

(社誌『地域共生セントラルグループ<起業の奇跡>』 による)
住宅竣工
田中家住宅竣工
四代目田中德兵衞は大正10年(1921)から大正12年(1923)にかけて、当時としては非常にモダンで立派な洋館を建設しました。自ら材木商を営んでいたことから建築資材にはこだわりがあり、当時入手できる最高級の木材を用い、煉瓦も建築現場の近くで専門の職人に焼かせたと伝えられています。

建築費用の総額は18万円といわれています。これは現在の金額にするとおよそ2億5千万円程となり、この建物がいかに破格であったかを窺い知ることができます。

味噌醸造について
川口の味噌醸造について
明治9年(1876)に編さんされた『武蔵国郡村誌』によると、十二月田(しわすだ)村の物産の欄に「味噌12,680斤(7,609.2㎏)輸出」と記載されています。この地域近辺の農村で味噌醸造業が発展した要因としては、良質の大麦が生産されていたこと、そして江戸(東京)という大消費地に隣接していたことによります。中でも田中德兵衞商店では、「上田一」(じょうたいち)という銘柄で全国的に販売を展開していました。しかし昭和40年頃には川口では味噌醸造は、ほとんど行われなくなりました。

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